全国百選めぐり【富山市の風景】

到達記録(富山市)

 富山市は百選の宝庫になっており、全国百選めぐり【富山市の風景】全国百選めぐり【富山郊外の風景】に別けてあります。

到達記録(富山城)

 平成30年06月26日に訪問しました。

 富山城(とやまじょう)は、富山県富山市丸の内にある城跡です。

 富山城は、越中守護代・神保長職(じんぼう ながもと)が築いたのが始まりとされています。

 天正09年(西暦1581年)佐々成政(さっさ なりまさ)が入城し、居城として大規模な改修ますが、翌年発生する本能寺の変の後、敵対した豊臣秀吉に7万の大軍で包囲され降伏しました。

 江戸時代に入ると、加賀前田家の分家が越中富山藩として独立。その居城となり、明治維新まで続きました。富山城は、神通川(じんずうがわ/じんつうがわ)の流れを水堀としていたため、水に浮いたように見え「浮城(うきしろ)」とも呼ばれました。当時の神通川は現在より大きく東に曲がっており富山城の北側を流れていました。現在の松川が当時の神通川と言われています。

 現地訪問時は、博物館として再建された模擬天守が工事中でした。その模擬天守もまた築60年以上経ち、国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。

 続・日本100名城【富山城】

到達記録(富山の和漢薬)

 平成22年10月16日、平成29年05月25日他、何度か訪問しました。

 和漢薬(わかんやく)は、和薬と漢薬の総称です。

 白壁の土蔵造りに「越中反魂丹」の暖簾が目印の池田屋安兵衛商店さんが代表的な和漢薬の店舗です。

 周辺一帯、和漢薬の店舗が並んでいたそうですが、明治維新によって西洋医学が流入し、流れが変わり、和漢薬で得た財で銀行など他業種にビジネス展開していき町並みが変わっていったと現地の老齢な営業マン。

 元禄03年(西暦1690年)、江戸城内で激しい腹痛に襲われたとある大名に、越中富山藩第2代目藩主・前田正甫(まえだ まさとし)が、和漢薬「反魂丹」を与えた所、すぐに治ったとのこと。周りにいた大名たちはこぞって自領でも販売して欲しいと、依頼したそうな。これが全国的に「越中富山の薬売り」が知られるようになるキッカケのイベントでした。なのでこの前田正甫さんは、藩主でありながら「売薬業発展の礎」と呼ばれているそうな。

 かおり風景100選【富山の和漢薬のかおり】

到達記録(いたち川)

 平成24年07月16日、令和元年08月13日他、何度か訪問しました。

 いたち川の水辺と清水は、富山県富山市を流れる河川です。

 街路樹や遊歩道が整備されており、川辺には取水場が設置されています。現地では、いたち川沿いに、地蔵尊がいくつも鎮座していました。

 それぞれ「泉町の子宝延命地蔵尊の水」や「石倉町の延命地蔵の水」として案内されており、地元民に大切にされていることがわかります。

 平成の名水百選【いたち川の水辺と清水】

到達記録(城下町・街路樹)

 平成24年07月16日、令和元年08月13日他、何度か訪問しました。

 市道牛島蜷川1号線は、富山県富山市にある市道です。

 新・日本街路樹100景の中でも特に場所の特定が難しいと感じたポイントでした。

 牛島蜷川線は富山駅や【富山城】の西側にあり、南北に走っています。立派なケヤキ並木が続いています。

 新・日本街路樹100景【市道牛島蜷川1号線】

到達記録(越中・舟橋)

 令和05年10月19日に訪問しました。

 越中・舟橋(ふなはし)は、富山県富山市を流れる松川(まつかわ)に架かる橋です。

 江戸時代には、各地に「舟橋」と呼ばれる、船を何艘も横に繋いでその上に板を渡した橋が掛けられていました。

 神通川の舟橋では、最長で430mあった川幅の両岸に柱を立てて鎖を渡し、64艘の船をつないで橋にしていました。

 明治時代に神通川の流れを真っ直ぐにする「馳越線(はせこしせん)工事」が行われ、現在は川幅の狭い松川が流れています。

 現在の舟橋は、平成元年に完成した往時の舟橋の姿が再現されたモニュメント付きの橋です。周辺には案内板が設置されています。

 日本百名橋【越中・舟橋】

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