034.能登の漁業伝統

公式引用

 能登内浦海域は、現在でも日本有数の定置網漁場となっている。当地での定置網漁の起源は判然とはしないが、西暦1491年(延徳3年)の史料に「波並の鰤網」の名があることから、中世にさかのぼることは確実である。江戸時代の当地での定置網は台網と呼ばれる大がかりなものであった。

 この台網漁を支えたのが“胴船”であった。近世文書では「筒舟」「胴船」などと記され、その形は先端を三角形とする長い箱形を呈した。

到達記録

 平成25年07月31日、平成27年04月19日他、何度か訪問しました。

 閑散とした少し寂しい雰囲気が漂う公園がターゲットでした。なんとか風雨を防げそうな場所ですが、この保存方法では100年後には原型を維持出来ないのではないかと思わざるを得ない状態でした。

 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選【能登の漁業伝統(胴船)】

公式引用

 正保年間(1664頃)、猪平集落に正直者の庄次兵衛という男がいた。沖へ出る漁師になりたくて、矢波集落の木下文左衛門に頼んで網水夫になった。

 その年の春は毎日のごとく大漁が続き、取れた魚を肴に毎日のように酒盛りがあった。庄次兵衛はすっかり酒の味を覚え年がいってからも酒の味が忘れられず、矢波集落の居酒屋でゴロゴロしていたが、あるとき馬小屋で寝込んでしまいとうとう起きられない体になってしまった。

 村の人々が不憫に思い食べ物を運び面倒を見てやるが亡くなってしまう。

 村人は生前庄次兵衛が「俺が死んだら、海へ流してくれ。必ず矢波の人に恩返しするよ。」と言っていたことを思い海の見える丘へ埋葬してやる。その数日後、「沖の台網に大鯨が一本入っているぞ・・」と言うので在所中の舟が出てその鯨を捕らえ、磯へ引き込んだ。鯨はおとなしく、切り開いてみるとひれの下に「庄次兵衛」という字が浮き出ていた。

 村人たちは庄次兵衛の死に際の言葉を思い出した。庄次兵衛の初七日の話である。

到達記録

 平成27年04月19日他、何度か訪問しました。

 海岸線ではなく、内陸側の旧道と思しき林道の中にありました。

 ホントにこの100選はハードルが高いな、と教えてくれます。旅人の勘で、この道をチョイスして公式写真の石碑を探しました。特別案内表記があるわけでもなく、ただポツンと石碑がありました。

 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選【能登の漁業伝統(庄次兵衛鯨伝説)】

公式引用

 「鯨獲絵馬」:1863年、加賀藩13代藩主・前田斎泰が海防対策のための能登巡見の折、藤波の浜まで鯨獲りを見学した情景を描いた絵馬で、現在、神目神社に所蔵されている。

 当時は外国船の出没より異国船打払令の奨励を通達したことから、加賀藩も藩内各地に台場(砲台)等を設置しており、藩主による海防巡視となったようである。

到達記録

 平成27年04月19日他、何度か訪問しました。

 キーワード「鯨獲絵馬」、「神目神社」で辿り着きました。半信半疑で階段を登りましたが、拝殿には大きなクジラの骨と思しき骨が。ここだ!と思わず口に出してしまいました。

 未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選【能登の漁業伝統(鯨獲絵馬)】

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