460.日本7周目その55:福江島に上陸!【前編】


 平成30年06月02日07時からスタートです。


 福江島の西海岸に出ました。


 日本の道100選【国道384号】です。

 国道384号は、長崎県五島市から長崎県佐世保市に至る国道です。

 国道384号線は、五島の主要産業である農林水産業や観光を支える循環道路として重要な路線に位置付けられているのは地図を見れば一目瞭然です。福江島を一周するように整備されています。


 日本の灯台50選【大瀬埼灯台】に到着です。

 半年前(平成30年01月02日)のリベンジに参りました。


 大瀬埼灯台(おおせざきとうだい)は、五島列島福江島の西端、大瀬崎の断崖に建つ灯台です。

 半年前は、午後から上陸していたので夕陽にしか間に合いませんでしたが、今回は一泊して早朝からアタックしているので時間に余裕です。


 大瀬埼灯台の初点灯は明治12年(西暦1879年)12月15日です。

 昭和46年(西暦1971年)に、現在の白色で円塔の灯台に改築されました。


 リベンジ達成です。


 背中を振り返ると、今まで下ってきた丘がバッチリ見えます。

 大瀬崎の山頂にある無線電信所は、電波山とも呼ばれ、日露戦争の日本海海戦における第一報「敵艦見ゆ」を受信した歴史があります。


 横を向くと断崖絶壁です。

 実に風光明媚な場所ですね。よくこんな島で暮らそうと思いましたね。五島藩のご先祖さんたちは。


 大瀬埼の先端です。


 足元はこんな感じです。


 さて、この灯台スペースに探索する場所はもうないので、戻りましょうか。

 展望台から往路はそんなにきつくないのですが、復路がなかなかハードでございました。


 嵯峨ノ島(さがのしま)です。

 嵯峨ノ島は、長崎県五島市に属しており、福江島の北西約4kmに浮かぶ島です。

 嵯峨ノ島は、北の男岳(おだけ)と南の女岳(めだけ)という2つの火山が裾野で繋がった島で瓢箪型をしています。人口は約160人の小さな島です。


 福江島再上陸の最大目的を達成したので、本土に戻る船の時間まで可能な限り福江島を探索してまいります。

 1つ目、井持浦教会(いもちうらきょうかい)です。


 井持浦教会は、長崎県五島市玉之浦町玉之浦1243にある教会です。

 井持浦教会は、明治30年(西暦1897年)にフランス人宣教師ペルー神父の指導によりレンガ造りの教会が創建されたと伝わります。

 現在は、昭和63年(西暦1988年)に鉄筋コンクリート造で再建された2代目教会があります。

 福江島は中通島に負けず劣らず美しい海に囲まれています。


 五島観光歴史資料館を訪ねます。

 五島観光歴史資料館は、長崎県五島市池田町1-4にある資料館です。平成元年(西暦1989年)に福江市の市制施行35周年を記念して設立されました。

 こちらで続・日本100名城【福江城】のスタンプ押印です。


 五島観光歴史資料館は、福江城の2の丸跡地にあるので、そのまま歩いて探索します。

 福江城(ふくえじょう)は、長崎県五島市池田町にある城跡です。地元では、別名、石田城(いしだじょう)と認識されているようでした。


 正月に訪問した際は、本丸跡地を見たので今回はぐるっと外側を周ってみます。


 福江城(石田城)は、幕末の文久03年(西暦1863年)6月に福江藩第11代目にして最後の藩主・五島盛徳(ごとう もりのり)が黒船に対抗する為に完成させた五島氏の居城です。

 江戸幕府最後に築かれた我が国で最も新しい城ですが、まもなく明治維新となり築城9年にして解体されました。


 石垣の保存状態はとても良いです。


 本丸跡地にある県立五島高校への入り口です。

 今は普通に授業中のはずなので入らないようにします。


 離島の城郭とは思えない規模の城壁です。


 石垣の形が大きく違う箇所を発見です。補修したんでしょうね。


 こちらは算木積み(さんぎづみ)の特徴が良く出ていますね。

 算木積みは、石垣の端を長方形に加工した石の長い面と短い面を交互に配置して、隙間無く頑丈な石垣になっているのが特徴です。

 江戸時代以降に作られた城郭の石垣に良く見れます。


 台場跡です。

 台場跡は、城の南東隅に位置します。一般的に言えば隅櫓ですが、当時、福江城は海に囲まれており、こちらの櫓台は海側に面していたと思われます。


 城の東側です。

 今は水堀ですが、当時は一面海だったようです。


 こちらは、最初にスタンプを回収した五島観光歴史資料館です。

 ぐるっと一周出来ましたね。

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