560.日本7周目その154:要害山城を登ろう!


 平成30年08月11日13時半からスタートです。


 甲府市藤村記念館です。

 甲府市藤村記念館は、山梨県甲府市北口2-2-1にある交流施設です。明治08年(西暦1875年)の建築である旧睦沢学校校舎が移築保存されています。

 こちらで続・日本100名城【要害山城】のスタンプ回収です。


 武田神社(たけだじんじゃ)を参拝です。

 武田神社は、山梨県甲府市古府中町2611にある神社です。大正08年(西暦1919年)に創建されました。


 武田神社の境内は、日本100名城【武田氏館】跡です。

 武田氏館は、正式には躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と大変難しい漢字の名称です。


 武田氏館は、戦国時代に、武田信玄の父である甲斐武田氏15代当主・武田信虎(たけだ のぶとら)が築城しました。信虎はその後、信玄に追い出されることになります。


 武田神社は、武田信玄を主祭神としています。御朱印を頂きました。


 天正09年(西暦1581年)、武田勝頼が新府城に移るまで3代60年に渡っての武田氏の本拠地でした。

 武田氏が滅亡すると、織田氏・徳川氏・豊臣氏によって甲斐国の統治拠点として再整備され、その後、甲府城が築城されるまで使用されていたと考えられます。


 現地では、堀跡と思しき水堀と土塁で囲まれた曲輪が残っています。国の史跡【武田氏館跡】となっています。


 続・日本100名城【要害山城】です。

 要害山城(ようがいやまじょう)は、山梨県甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にある城跡です。


 専用の駐車場が見当たりませんでしたので、麓の施設の方に声をかけ、車を停めさせて頂きました。

 それでは攻城しましょう。


 竪堀跡と案内がありますが、雑草で見えないです。

 要害山城は、躑躅ヶ崎館の詰め城として武田信玄の父・武田信虎が築城しました。武田氏VS今川氏の戦いの間、武田信玄が要害山城で生まれています。


 門跡です。ここから本格的な城域となっています。

 武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名・加藤光泰(かとう みつやす)が入城し、徳川氏への押えとなりました。


 不動曲輪です。不動明王が安置されています。

 不動曲輪だから不動明王が安置されたのか、不動明王が安置されていたから不動曲輪と呼ばれたのか。


 門跡です。桝形虎口を形成しているのがわかります。


 「武田信玄公誕生の地」の石碑があります。


 主郭部に到着です。

 主郭部は、縦長な空間になっています。土塁で囲まれていることが確認出来ます。


 関ヶ原の戦いの後、再び徳川氏が甲斐国を領有し、要害山城は廃城となっています。国の史跡【要害山】です。


 時間ギリギリに韮崎市民俗資料館に到着です。

 韮崎市民俗資料館は、山梨県韮崎市藤井町南下條786-3にある資料館で、続・日本100名城【新府城】のスタンプが設置されています。


 続・日本100名城【新府城】の現地です。

 無料の駐車場が整備されていたのでそこに停めて攻城開始です。陽が傾いていますが、階段ではなく坂を登ります。


 二の丸跡地です。

 新府城(しんぷじょう)は、山梨県韮崎市中田町にある城跡です。


 本丸跡地に到着です。

 新府城は、天正09年(西暦1581年)、武田勝頼による築城が開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住し、本拠地を移しましたが、天正10年(西暦1582年)には武田氏滅亡となりますので、非常に短い期間の居城でした。


 本丸には武田勝頼が祀られています。


 思っていたより軽く登れて、城域はあまり大きくはないと思います。

 新府城の築城が天正03年(西暦1575年)の長篠の戦いの後なので、勢力が低下していたのでしょうか。


 ぐるっと三の丸側から登ってきましたが、帰路は階段を下ります。


 駐車場が少し離れた所に配置されているということは、こちらも城跡遺構なのでしょうか。

 堀や土塁によって造形されているように見えますが、案内がないので後世の改変かもしれません。


 道の駅「歌舞伎の里大鹿」に到着です。新しい道の駅が続々と出来ていますが、地道に訪問しております。

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