353.中国遠征その28:中国四十九薬師霊場その1


 平成29年05月16日です。

 今回も中国地方に遠征です。


 道の駅「神戸フルーツ・フラワーパーク大沢」に立ち寄ります。

 新しい道の駅が出来たら訪問しています。通称もぐら叩きです。

 どうやらオープン時間10時丁度の訪問になったようです。道の駅というよりもテーマパークのような雰囲気で満たされています。既存施設と融合した道の駅と思われます。


 中国自動車道にある加西SAで少し遅めの朝食兼昼食です。ビーフかつめしを頂きます。

 ビーフかつめしは、加西市の南にある加古川市発祥のB級グルメです。戦後、ビーフカツを出すお皿が不足していたとのことで、1枚の皿の上にご飯とビーフカツを乗せたのが発祥だとか。ご馳走様です。


 岡山県津山市に入って下道を走ります。

 中国四十九薬師霊場5番札所【長雲寺】を参拝です。

 長雲寺(ちょううんじ)は、岡山県津山市小田中876にある高野山真言宗の寺院です。


 長雲寺は、寺伝によると、明暦03年(西暦1657年)に当時の津山藩主・森長継(もり ながつぐ)の娘が眼病を患った際に、長雲寺に参詣して祈願したところ平癒して以降、津山藩の庇護を受けたと伝わります。

 御朱印は書置きが置かれていました。バインダー式の御朱印帳なので困りませんが。


 中国四十九薬師霊場6番札所【普光寺】を参拝です。

 普光寺(ふこうじ)は、岡山県久米郡美咲町打穴西1604にある天台宗の寺院です。


 普光寺は、寺伝によると、元々は浦上宗景(うらがみ むねかげ)や宇喜多直家が支配した天神山城の麓にあり、兵火によって古記録などを焼失し由緒縁起などは不明とのこと。

 こちらも御朱印は書置きでした。


 中国四十九薬師霊場7番札所【佛教寺】を参拝です。

 佛教寺(ぶっきょうじ)は、岡山県久米郡久米南町仏教寺84にある高野山真言宗の寺院です。

 案内板はしっかり出ていましたが、登り道はなかなかの酷道でした。


 佛教寺は、寺伝によると、和銅03年(西暦710年)の創建で、元明天皇(第43代陛下)の勅願道場として、広大な寺域を賜ったと伝えられています。

 三連発での御朱印書置きでした。中国四十九薬師霊場は書置き主体なのでしょうか?


 岡山市内に入り、国の特別名勝【後楽園】を訪ねます。

 後楽園は、岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)です。庭園に入って早々、岡山城が見えます。


 後楽園は、野芝を大量に配した庭園です。写真は沢の池に浮かぶ砂利島です。


 実は後楽園は今回が初訪問です。

 後楽園は、金沢市の兼六園、水戸市の偕楽園と並べて日本三名園とされています。日本三名園の訪問達成です。


 こちらは中の島と呼ばれています。島茶屋があります。


 今回は後楽園と岡山城の共通券を購入していますので後楽園を通り抜けて岡山城に向かいます。


 旭川に架かる月見橋を渡って、城郭の後ろ側からの撮影です。


 日本100名城【岡山城】の天守を正面から撮影です。

 岡山城は、六階建ての望楼形天守(簡単に言えば、天守の上の方が展望台みたいになっている造りの天守こと)です。

 岡山城は、豊臣秀吉の寵愛を受けた宇喜多秀家が慶長02年(西暦1597年)に完成させた城です。

 宇喜多秀家は3年後の関ヶ原の合戦で敗軍の将となり、八丈島(東京都/伊豆諸島)に流され、寝返りを打った小早川秀秋が入城しますが、慶長07年(西暦1602年)に跡継ぎ無く早々に死去します。

 その後、池田輝政(徳川家康の娘・督姫のご主人)の子孫が代々城主を務めました。昭和20年(西暦1945年)の岡山空襲で天守は焼失しており、現在の天守は、昭和41年(西暦1966年)に再建された鉄筋コンクリート造の復元天守です。

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