1216.中国の旅その50:八重滝を見に行こう!


 令和07年10月11日08時からのスタートです。


 日本の滝100選【龍頭八重滝】の八重滝(やえだき)を訪ねます。

 八重滝は、島根県雲南市掛合町入間を流れる三刀屋川(みとやがわ)沿いにある滝の総称です。

 八重滝は、合計8つの滝の総称であることがその名の由来とされています。8つの滝には、それぞれ名前が付けられており、下流から猿飛滝、滝尻滝、紅葉滝、河鹿滝、姥滝、姫滝、八塩滝、八汐滝となります。


 猿飛滝です。

 駐車場の手前にあります。


 八重滝は、駐車場から八汐滝まで約1,100mの行程となります。高低差は少なく気軽に楽しめる滝群です。


 滝尻滝(たきじりだき)です。

 滝尻滝は、落差10mほどですが、轟音と水煙を上げており、主瀑に次ぐ滝です。


 川沿いの道がまだ通行止めの状態で、山側からのアクセスのみ生きている状態です。


 紅葉滝です。


 河鹿滝(かじかだき)です。


 姥滝です。


 姫滝です。


 手前が八塩滝(二の滝)、奥が八汐滝(一の滝)です。両方とも「やしおだき」と読むみたいです。

 八塩滝の左手に鉄鎖があり、登れるようになっていますが、3連休初日なので無理はしないでおきました。全体として三重県の赤目四十八滝のスケールを小振りにした感じです。


 三刀屋城(みとやじょう)跡を訪ねます。

 三刀屋城は、島根県雲南市三刀屋町にある城跡です。車で本丸跡地近くまで登れますが、私のプリウス君だと車高的にきつかったかもしれません。

 本丸跡地には案内看板と石垣跡があります。


 本丸の隣に広がる二の丸曲輪です。稲荷社が鎮座しています。

 三刀屋城は、現地の案内によると、承久03年(西暦1221年)以来、この地を支配した三刀屋氏の居城と伝わります。


 稲荷社に参拝しておきます。整備されているのはここまでで恐らく南北に曲輪が広がる城跡と思えますが、見学は難しそうです。


 三刀屋氏について調べてみると、戦国時代には出雲国の国人として生きており、天文11年(西暦1542年)に周防国の大内氏が出雲国の尼子氏を攻めると大内氏に寝返り、尼子氏を攻めます。

 戦局が変わると、再び尼子氏に寝返り、大内氏を追い返します。永禄05年(西暦1562年)に毛利氏が出雲国に侵攻すると毛利氏に寝返り生き延びます。

 天正16年(西暦1588年)に毛利輝元に随行して上洛した際に、徳川家康と面会したことを輝元に疑われて領地没収となったそう。生き残るために裏切りを繰り返す国人はやはり信用されていなかったのでしょうか。


 見張台跡と案内がありますが、整備はされておらず、ここまでです。

 三刀屋城は、山陰道と山陽道とを結ぶ街道沿いに位置する交通上の要衝で、尼子方の拠点として尼子十旗の一つに数えられていたと伝わります。現在も国道54号線を見下ろす立地に位置しており、アクセスは容易です。


 農山漁村の郷土料理百選【出雲そば】です。

 出雲地方では有名らしい「たまき」さんが運営している波積屋さんを昼食に利用しました。美味しく頂けました。ご馳走様です。


 白鹿城(しらがじょう)跡を訪ねます。

 白鹿城は、島根県松江市法吉町にある城跡です。登り口に車2〜3台停めれそうなスペースがあります。


 堀跡と思われる凹です。

 白鹿城は、尼子十旗と呼ばれる尼子氏の支城群の中でも第一とされる堅城だったと伝わります。


 大井戸跡と案内がありますが、山頂や本丸に結構近い位置にあります。

 白鹿城は、毛利氏VS尼子氏の戦いの中で、毛利元就は大森銀山の坑夫を使って地下道を掘らせて井戸を抜いたというエピソードが残っており、この井戸のことだろうか。


 本丸跡地です。

 特に遺構などは見受けられませんが、曲輪跡であることは十分わかる状態です。


 少し戻って白鹿山の山頂地点も訪問しておきます。

 山頂地点は、曲輪が形成されており「一の床」と案内されています。「一の床」の先に「二の床」「三の床」と名付けられた曲輪が連続しており、普通に考えたらこの「一の床」が本丸で、先ほどの本丸跡地の案内があった曲輪は本丸北側を守る曲輪と感じます。


 「一の床」は、椎茸の試験栽培をされていました。


 小さな社が鎮座していました。

 山城ですが滞在30分ほどで見て回れる城跡でした。

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