455.日本7周目その13:友ヶ島に上陸!【後編】
平成30年05月18日。 友ヶ島上陸編の後編です! |
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真っ暗なトンネルを抜けた先にあるこれは砲台跡か?砲台跡にしては小さいな。井戸跡かな? |
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覗き込んでみる。 しっかりコンクリートで固められていますね。明治時代から大東亜戦争まで使われた要塞のはずなのでやはり井戸かなぁ。 |
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再び地下道に戻って別の空間を目指します。 |
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これは確実に砲台跡だ。 |
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砲台同士も防空壕で繋がっているのが分かります。 |
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少し上から撮影。 当時の固定砲台は想像以上に大きい物です。 |
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第三砲台跡地から近くにある展望台に来ました。 本来ならここから西を眺めると、淡路島が展望できるはずなんですが、霧が覆っており、写真で見えるのはこの島にある友ヶ島灯台だけですね。 |
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東を向くと小さな島が神島、奥に見えているのが虎島と地島ですね。 |
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ここで朝買っていたオニギリを昼食に一服。 一服していると船が近くを通っていました。 |
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所々にこんな案内板があって親切です。 |
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10分ほど歩いて岐路です。 残り時間を考えて少し悩みましたが、体調が良い感じなので、旧海軍聴音所跡地も訪ねてみます。 |
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再び10分ほど歩いて旧海軍聴音所跡地です。 |
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ここは普通に内覧出来る状態でした。 |
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明治時代の軍事施設はレンガ造りが基本なのかな? 確かに舞鶴や呉でもそんな雰囲気ではあるけれど。 |
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外から見た聴音所。 |
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窓の跡が見当たらないけどここって雨ざらしだったのかな? |
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この四国と和歌山の間の狭い海峡に他国の潜水艦が実際に行き来していたのかな?大東亜戦争末期以外ではどうなんだろう。興味が尽きない。 |
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聴音所だとしても機関銃くらいは設置されていたのだろうか。 |
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コンクリートの無骨な造詣だけれど、雰囲気があって良かったです。 |
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本日は時間制限ありなので私以外の観光客はここには来なかったようで、誰とも会いませんでした。 |
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池尻キャンプ場です。 奥に見える池は蛇ヶ池(じゃがいけ)と言うそうな。 |
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孝助松海岸です。 海水浴には少し小さい海岸ですね。 |
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キャンプ場利用者が使うのかな。今日は、明日の迎えの船がない可能性が高いのでキャンプ客は来なかったはずですが。 |
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友ヶ島灯台の看板を発見。 |
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友ヶ島灯台は、明治初期の大坂条約によって建設された5基の西洋式灯台の一つです。 日本で8番目に作られた西洋式灯台です。 |
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大坂条約というのはイギリスとの条約で5基の灯台を江戸条約の8基に追加して作るという内容です。 一方的な条約ではありますが、イギリスが派遣してくれたリチャード・ヘンリー・ブラントンにより設計されています。但し給料は明治政府持ちだったはずです。 |
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改築されながらも初代の灯台のようですね。 |
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経済産業省から「近代産業遺産群」の認定を受けているようですね。 |
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ここは第一砲台跡地です。 |
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左に並んでいるのは弾薬庫かな。 |
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一部フェンスで通行止めになっていました。 |
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ぐるっと迂回すればもう少し奥まで見学できそうでしたが、もう11時。11時20分には戻るように言われていたので次の第二砲台跡地に向かいます。 |
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第一砲台跡地から5分ほどで第二砲台跡地に到着です。 |
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こちらは明らかに破壊された跡があり、入ったらダメの看板がありました。 |
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柵が巡らされているのでそこから撮影しました。 |
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破壊されていなければ素晴らしい遺跡になっただろうに。 |
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ちなみに破壊は大東亜戦争の終結時に行われました。 |
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こちらの砲台群は実戦を経ずにその役目を終えたのでした。 |
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瀬戸内海を睨む砲台跡地。 |
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きっと当時の日本の船はこの砲台を見ることで安心して航行できたんでしょうね。 |
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夏休みだけ営業するのかな? |
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こちらの民家は崩壊していますね。 |
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何とか雨を降らさずにいてくれてありがとう。 |
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どうやら迎えの船がもう来ているようですね。 |
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ぐるっと歩いていい運動になりました。 今回の旅路では、しっかりダイエットにも挑戦しつつ、縄文杉に挑戦できる体力を付けるという目標があります。 |
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小さなお社さんが鎮座していました。 |
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それではバイバイ友ヶ島。素晴らしい島でした。 |
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往路よりも復路の方が揺れましたが、私も随分と船に慣れたので内海ではもう酔わなくなりました。 |