452.日本7周目その10/田丸城と津城


 平成30年05月16日。

 志摩エリアから北上を開始します。


 途中、恵利原の水穴に立ち寄ります。


 天の岩戸伝説の一つがあります。


 恵利原の水穴は、三重県志摩市磯部町恵利原にあります。


 この岩穴から湧水しています。(昭和の)名水百選に選ばれています。

 今は平成の名水百選があるので、便宜上、私のHPでは昭和の名水百選としてコンテンツ化しています。


 天岩戸神社として祭られています。


 参道も雰囲気があって良いですね。私のお気に入りの場所の一つです。

 高千穂は観光客が多いので、心静かにゆったりとは過ごしにくいですからね(笑)。


 田丸城(たまるじょう)跡地です。

 三重県玉城町にあります。


 案内に従って車を走らせると、玉城中学校がありました。


 近くの駐車スペースに車を停めて登ります。


 遊歩道が整備されています。


 田丸城は、南北朝時代、南朝方に付いた北畠親房が築城したのが始まりとされています。


 駐車場からものの数分で本丸跡地に到着です。


 こちらが天守台跡地と紹介されています。

 戦国時代、織田信長の次男・信雄に北畠氏の家督を継がせ伊勢国を支配下におくわけですが、田丸城はその時、織田信雄の本拠地となりました。その際に、三層の天守閣を構える近世城郭となりました。


 石垣がしっかり保存されていますね。


 天守台跡地から田園風景が広がっています。

 織田信長は楽市楽座のような経済自由化・活発化を主体とした経済政策に注目が集まりますが、この伊勢の豊かな田園は濃尾平野に負けず劣らずの石高を持っていたと思います。


 ここは模擬天守を造るより、この天守台跡のままの方が良いですね。


 天気は回復しないままですが、雨が降らないだけマシなのかな。


 玉城中学校のグラウンドが見えますが、ここが駐輪場になっているの?


 この辺りの石垣は復元かな?


 グラウンドが駐輪場になっていることが不思議な私、再度撮影する(笑)。


 この石垣がたまらんな!とか感じるようになってしまったので私はもう城好きを名乗ってよいでしょうか。


 本丸の奥の郭にはお稲荷さんが鎮座していました。


 二礼一拍手一礼。


 大手門まで戻ってきました。


 水掘りが形成されていますね。


 こちらは玉城町役場です。城内にあります。


 こちらは村山龍平記念館です。玉城町役場の向かいにあり、続100名城のスタンプがあります。

 村山龍平って誰だと思って調べると悪名高い朝日新聞社の創設者だとか。別にこの村山さんが悪いわけではないけど、従軍慰安婦という言葉を捏造し、世に広め、日本人の名誉を傷つけたことは許されない。

 ちなみに朝日新聞が従軍慰安婦に関する記事捏造を認め謝罪記事を出したことを知る人は意外と少ない。何故ならとても小さい記事だったから。国際関係を揺るがす大問題を作っておきながらこの態度は許されない。

 …話が脱線しましたが、9時になって続100名城のスタンプを回収しました。


 津城跡の三重櫓です。

 津城(つじょう)は、戦国時代に織田信長の弟・織田信包が安濃津城(あのつじょう)を大規模拡張したのが始まりとされています。


 関ヶ原の戦いの後、城主となった藤堂高虎の銅像がありました。


 現在は公園として整備されており、近隣にコインパーキングも整備されており、訪問しやすい城跡となっています。


 石垣を覆う緑が美しいですね。


 石垣がしっかり残っていて見応えがあります。


 現存石垣のようで所々、崩壊の危険があるようですね。


 高山神社の社務所に続100名城のスタンプが置いてあります。


 本丸跡は水堀に囲まれており、石垣も高いです。流石は藤堂高虎の居城です。


 石垣の上を歩けるのも良いですね。


 道の駅「津かわげ」に立ち寄り少し早めですが昼食です。


 味噌カツ定食。850円。

 ご馳走様でした。

 まだ11時ですが、紀伊半島でしたかったことは完了したので、一旦帰宅します。今回は計画的に作った旅行期間なので、今晩は次の職場の人と打合せという名のビールを飲んできます。


 今回の旅路で回収したご当地サイダーです。

 二泊三日、走行1015km、燃費は20.6km/hでした。まだまだ旅のリハビリですね。

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